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成都の武侯祠の武将像の画像をアップする

 



http://hayabusa.open2ch.net/test/read.cgi/news4vip/1418094260/


1 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:04:20 ID:HXU(主)
http://imgur.com/ZaUZJKQ.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_1

http://imgur.com/krBVHcI.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_3

劉備玄徳

言わずと知れた蜀漢国の初代皇帝(昭烈帝)

彼がいなければ三国志は無かった。

数ある英雄・実力者が戦乱に散っていく中、したたかにしぶとく生き残り最後には皇帝にまでなった男。

言わば敗戦のプロ。誰にも捕まえられない男。逃げても魅力を失わない、天運に愛された男。

むしろ売りから皇帝にまでなったのだから偉業と言うほか無い。

三国志演義では文弱の聖人君子にされているが、実はバリバリの前線指揮官。しかもかなり有能。

よく比較される劉邦とは違い、本人もかなり優秀で、夏侯惇ぐらいなら余裕で勝利。

さすがに曹操には勝てないが、正面からでは無理だと踏むと、タカ派の曹操に反感を抱く保守派を集めて勢力を築くという秀才でもある。

人物眼も確かで、草莽の中から関羽、張飛、趙雲、諸葛亮を見出し、そして馬謖が役に立たないのを見抜いていた。

自身の戦術的才能もさることながら、自分より秀でたものを認め、それに任せる度量をもち、尚且つ無能者も拒まないという懐の広さ。

曹操とは違ったタイプの君主としての才能を持っていたといえる。

利無ければ富も名誉もあっさりと捨てること、部下に多くを求めないこと、これが劉備の最大の魅力であり特徴だと思う。


2 :名無しさん@おーぷん2014/12/09(火)12:11:42 ID:uBJ
画とかとか

※劉禅は飾らていない

か書いてあるけトですか調


4 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:20:26 ID:HXU(主)
>>2
ないよ〜。でも代わりに洛帯という成都の郊外の街に、劉禅が溺れた池というのが残ってるw


3 :名無しさんおーぷ :2014/12/09(火)12:19:28 ID:HXU(主)
http://imgur.com/CzYIG5T.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_7

http://imgur.com/qusdIKd.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_15

葛亮孔

漢国の丞相(首相みたいなもの)

がいなくて三国時代はかった

な行政官

兵法にしかった。

備にになること嘱望され、劉備自ら貿 家に訪れ「三顧の礼あまも有名

人を得て地を得なった劉備に現実的展望を語り、蜀の地に攻めることをした。

蜀漢国成後は国を良く治め、劉備の死後は彼のぎ何度もを行い魏とた。

彼のの中で筆すべ政である

蜀の地の開を行い、富国強兵に務め、司を整備し規律のある家をき上げた。

蜀の1州で魏の12州とり合うだけの力と士気を保ったのはではない

に用兵に関してはれのとこがあるのは否めない。

演義のイメージに反実際諸葛は策謀を嫌い、堅兵法を好んだ

い方は場当たり的に正面に出てきた敵と正面から戦のみで速度も遅くけないという方立った

それの層い蜀ては対条件だたかしれない(この軍がしたら国防来な魏に軍がもまだ兵る)

しか、漢王朝をり戻すた中央襲をかけ、支配面をげるだの辺境へ出は、正しはあっても政略的な意図感じられず、出の表にうな中央恢復する正義を実行する気が本当あった問である

からず中にい朝に不間は彼の行便に失しただろう。

更に、馬へ敗戦の責任の押し付けたことや、厳へ理不更迭をも、本当の平さうものを実行できていないという誹りは免ないと思

しかしながら心なく劉備の意思を継いで行したと臣であるとうし小説ほどのかったに官、司法官とてはま見る優秀った

国力は全て彼れ一人頭脳かから。


7 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:28:19 ID:uBJ
ほとんど架空の話らしけど まぁディズニーランドみたいなもんなのかな




9 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:30:53 ID:HXU(主)
>>7
そうだね、あらすじや勝ち負けは史実だから変えられないけど、原因とか活躍した人とかが結構変えられてる。

創作の割合としては太閤記とどっこいどっこいじゃないかなw


8 :無しさ@おぷん :2014/12/09(火)12:29:32 ID:HXU(主)
http://imgur.com/08e151h.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_31

http://imgur.com/UwaYXKU.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_63

(益徳)

迫力、怪力双の暴れん坊にして劉備の

やるとなすこと全てダイナミック。

飲んでは派手に暴れ派手に敗し劉備に手に謝る。

いは喝すば敵ックて落馬するほど

織戦特殊任務不得が、その怪力と迫力を生かした突進力敵をなぎ

性格的には上にへつい下しく乱とている上司としては最

にかくることなす全て豪快夏侯の親の幼女を誘拐レまうという末ぶり。

(そその嫁と間に生まれた娘が劉禅に嫁うカオスっぷり)

い間備陣営のトメイーとして躍(?)していた、蜀戦で突然知変化

顔を退鞭で籠絡し、中戦では張郃をおびき出しいう活躍ぶり。

うした張飛、お前のキャはそうじゃなと心配してか、羽の復備に懇願しの出前にて暴て部に寝首をかれるというオチもちんと付けてくれる。

かった、最までキャはぶれてなか安心。


10 :名無さん@ーぷん :2014/12/09(火)12:34:49 ID:YF6
白い

蜀好きのおれはもってこいのだな

1の考察も興味


15 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:46:44 ID:HXU(主)
>>10
ちなみに俺は魏ファンなんだけどねwww


11 :名無しさんーぷん :2014/12/09(火)12:35:12 ID:oPU
やっぱりー!大大哥!(≧∇≦

う武将像が祀られて施設て結構いの?


15 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:46:44 ID:HXU(主)
>>11
結構あるけど、多分この成都武侯祠が一番大きいと思うよ。


12 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:44:59 ID:HXU(主)
http://imgur.com/yb6gIsF.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_127

趙雲子龍

三国志界の必殺仕事人。

地味で自己主張が薄く、目立ったことはあまりやらないが、与えられた仕事は確実にこなす。

特殊な任務遂行に長けていて、諸葛亮が劉備陣営に加わってからは彼の複雑な作戦を履行できる数少ない人材として重用された。

特に退却戦をやらせたら三国一と言っても過言ではないと思う。

勝ち戦での彼は優秀な将軍の粋を出なかったが、敗戦処理をさせると替えのきかない超一流の将軍になる。

追うほうが損をするような状況を、その場その場で組み立てるのであるから これほど冷静で粘り強い将軍はそうはいないと思う。

武芸にも秀でており単騎で数万の曹操軍の中から阿斗(後の劉禅。劉備の子)を救い出した時は八面六臂の大活躍。

劉備をして子龍全身是胆(ユーアーオールホルモン)と言わしめた人材。

実は蜀最強との噂も。

実力の割に自己主張が少なく、その上他人の尻拭いのような敗戦処理を淡々と見事にこなすというその縁の下の力持ち具合が日本人に大人気。

ちなみに、ここ武侯祠では各武将は諸葛亮視点となっているので、趙雲は老将である。


13 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:46:19 ID:oPU
兄貴のスレを見てると中華料理食べたくなってくる。。


16 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU(主)
>>13
武将で中華料理食べたくなるとはなかなかの豪傑よ。





14 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:46:33 ID:IFD
この人も白眉だったん?


16 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:47:47 ID:HXU(主)
>>14
老将だから白くしただけじゃないかな。

ヒゲともみあげは白くないけど、これは手抜きでしょw


18 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)12:49:34 ID:HXU(主)
http://imgur.com/lhW5zpH.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_255

黄忠漢升

熱血プッツンおじいちゃん。

いつも周りに年寄りとバカにされて「まだ老いぼれちゃいない」と発奮して戦う。

しかしそれは皆が黄忠を良いように使う為の方便だ!

騙されちゃだめだおじいちゃん!

突撃なんかしちゃだめだ、得意の弓で戦うんだ!

定軍山で夏侯淵の首取ったのはそりゃあすごいけど、あ、ほら、言わんこっちゃない。

夷陵にて老衰。いや戦死。

ていうか皆おじいちゃんをいいように扱いすぎ、特に諸葛亮、お前はダメだ。

KEIROU精神をもっと持とうYO!


19 :名無しさんーぷん :2014/12/09(火)12:52:52 ID:IFD
若い頃は何して


22 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU(主)
>>19
若い頃は劉表のところにいたみたい。

その頃から名声はあったみたいだけど、何したかは伝わってない。残念。


20 :名無さん@ーぷん :2014/12/09(火)12:53:28 ID:Ehe
w

晩年の張飛はだろうなアレ

習したっより入れ知なんじゃなろーか


22 :名無しさん@おーぷん :2014/12/09(火)13:02:12 ID:HXU(主)
>>20
なんかウィキれば分かることをわざわざ書くのも何だなと思ってさ。

張飛の何だったんだろうな。

諸葛亮や龐統らの影響が張飛ら脳筋にもあったってことなのかな?


21 :名無しさぷん :2014/12/09(火)12:58:02 ID:HXU(主)
http://imgur.com/XduRDmf.jpg
成都の武侯祠の武将像の画像をアップする_511

龐統士元

国志界も名うての不細

実は亮と比肩するの頭脳の持ち主が、持ち前の顔いで誰からも相手に・・

を最は見誤った。そんなに悪そ調顔していたのか

そんな彼を別営から気にかけて魯粛さする。三国一の良心

とてもとは思ない龐統だ政治に長ける諸葛対に軍事に長ける。

でも劉備は諸葛亮では沿く彼を連れて行っている。

その用兵は、迅速でありつ着である

発想の優先順は戦略>政略>戦術であが、政劉備が行余地与えた選に用意しいると優秀っり。

張魯なの周況をフルに優位るように利用た戦て、劉璋をソッコルボッ

しかしで幸い彼は入蜀前にして劉厄をき受けでしまう

、龐統ら全然違う結果にあろに・・・惜ししたものだ


23 :名無ん@おーん :2014/12/09(火)13:03:20 ID:Ehe
諸葛亮もところでたんゃうん?

ウ統は何で略戦を諸葛亮てやたんか問だなぁ




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